被害者意識と加害者意識

不登校だった僕らから



本題に進む前に先に言っておきたいことがる


”不登校は悪いことではない
ただの生きる選択肢だ”


そのことをどうか心に入れながら読んでほしい











僕は不登校をしている時
いつもどこかに罪悪感のようなものを抱えていた




その罪悪感が
発信するエネルギーも
行動できるだけの前向きさも奪っていたように思う




罪悪感とは罪を犯した時
自分が悪いことをしていると自覚している時に感じる気持ち




それは「加害者」の気持ちなのだ




僕は小中学校で
遅刻を約2年間
不登校を約4年間経験した




僕は遅刻や不登校を悪いものだと思っていたし
だからそれをしている自分は悪い人間だと思っていた




自分がそんな気持ちでいるのに
不登校の時に周りの人にそんなイメージを言われたり
そんな目で見られるのが嫌で


「そんなんじゃない そんなんじゃない」って
いつも心の中で反論してから
「やっぱり僕が悪いんだ」と最後にはそう自分を納得させてた




あの時の僕の罪悪感は結果として
当事者である僕が何より
不登校にたいして偏見を持っているという証明のようなものだった


そしてそこに一番気付いていないのも自分だった




罪を自覚している加害者が自信を持つことは難しい


自信が無いから動き出すことも夢を持つことも「申し訳ない」という重い鎖が足を引っ張る






だから僕の場合は周りの人たちがその鎖をちぎって引っ張っていってくれた


それは本当に運の良いことだったと思う




僕が出会ってきた不登校の子ども達


不登校になる理由は似たようなものがあったとしても
けっして同じものは無かった




僕がその子達に接したり
過去の自分にたいして向き合う中で
大きく分けて2種類の気持ちを持っている人がいると感じた


不登校している自分に持っている気持ち


それは「被害者意識」と「加害者意識」だ




そもそも不登校は悪いことではないし
そんな風に考える必要も感じる必要もない




だけど僕がそうだったように
わかっていたとしてもその気持ちを感じてしまう人は本当に多い




理由によっても様々だけれど
不登校の子はもっと被害者意識があった方が良いと僕は思っている




なぜかというと
僕が出会ってそう思う子ども達は少なからず自分の苦しさを訴えてくれる


「自分がこんな目にあわされている」と思うことで
そのことを人に伝えたいのだ




この「伝えたい」が何より大切で


「伝えたいけど言えない」のと
「伝える気もないから言わない」では
前者の方が言葉じゃなくても何かしらの気持ちや苦しみが伝わる可能性が圧倒的に大きい


周りの人が気付いたことがきっかけで状況が良い方向に向かう可能性は大いにある




加害者意識が強かったとしても
被害者意識が少しでもあればその部分は誰かのせいにできるから自分を守れるし


守れた部分が自信になり
どんな形であれ前を向ける材料になる




だから僕はどんな理由であれ
大いに社会や学校や親や先生や友達のせいにして良いと思う




少なくとも僕が出会ってきた子ども達は
自分を責めてしまうほど優しすぎる子が多かったから




加害者意識だけの子は何も言わない


自分の意見を言う権利も
夢を持つ権利も
最後には生きる権利も
自分には無いと思い


「自分が生まれて
生きてしまってごめんなさい」と自分を責めながら
静かに静かに消えていく




そんなのは悲しすぎるから






何度も言うけれど不登校は悪いことではない
ただの生き方の選択肢だ






不登校になるのはもの凄い勇気がいる


僕だって出来なかったけれど
今は心からこう思う




自分を責めてしまうのは心が優しいから
だけどそれ以上に
不登校という勇気ある選択をした自分を
褒めてあげてほしい






雄介

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