八田です。
先月の〜不登校だった僕らから〜のブログでは、メンバー全員で個人Twitterをはじめたことをお知らせしました。
それぞれの思うことをそれぞれのタイミングで自由に発信しています。
僕は、真面目なことやくだらないこともつぶやいています。
不登校関係での思うことは関心を持ってくださる方が多く、お会いしたことのないような方も反応をしてくださり驚いています。
いいねを押してもらえると嬉しいですし、リツイートはご自身の発信の一覧に載せて拡散してくださるわけなので、本当にありがたいです。
「登校拒否だった僕から」
学校に行かないことを「不登校」や「登校拒否」といいます。
僕は、これらの言葉のあり方をあまり気にしたことがなかったのですが、思うことがあったのでこのブログに書きます。
最近は「登校拒否」という言葉をほとんど耳にしなくなりました。
僕が不登校だった頃はまだ「登校拒否」という言葉が主流だったので、世間が自分を指す呼び名を「登校拒否児」と受け取っていたことを憶えています。
たまに「拒否児」と略した呼び方をする人もいて、それについては悪意があったと思います。
僕が不登校だった3〜4年の間に、ちょうどその言葉が見直されました。
「学校に行きたいのに行けないから、本人は拒否をしているわけではない」
そんな理解がすすみ、ただ学校に行かないという意味の「不登校」という言葉が使われるようになった。
当時、そう親から聞いたことも憶えています。
不登校の気持ちに歩み寄ろうと、社会の優しい心遣いを感じます。
「登校拒否」と比べて「不登校」は、意思を含まない言葉なので色々な子に当てはめることができると思います。
最近では、学校に行きたいとか行きたくないとかそういったことは関係なく、選択として「行かない」そんな子もいると思うのでまた言葉が見直されることもあるかもしれません。
「不」って、やっぱりマイナスなイメージですからね。
僕は「登校拒否」という言葉が嫌いです。
今でも、耳にすると嫌な気持ちになります。
それって何故だろうと思いました。
自分は行きたいのに行けなかったから拒否ではなかったんだ!!
といった具合に、言葉の意味が嫌なのでしょうか。
たしかに僕は学校に行きたかったです。
だけど、拒否をしていなかったのかな..
じっくりと考えてみると自分の中で一つ答えが見つかりました。
まず「学校に行きたいのに行けない」の「学校に行きたい」という思いには、似ているようでまったく別の2種類の意味合いがあります。
1つは「学校が好き」というそのまま受け取っていい意味合い。
もう1つは「学校に行けるようにはなりたい」といった少し複雑なもの。
前者には「学校に行きたいのに台風で休校になった」と同じような意味があてはまります。
だから「学校に行きたいのにお腹が痛い」それなら、拒否をしているわけではないので「登校拒否」は当てはまりません。
こうして考えてみると、当時僕の思いは後者だったような気がしたのです。
「行けるようにはなりたい」という気持ちの中には、行けないことを自覚している気持ちが含まれます。
なので「行くか?」と問われると「無理だ」と答えるような気持ち。
(これをなかなか口にできないのです..)
そう考えてみると、僕は拒否をしていたのだと思います。
僕が「登校拒否」という言葉が苦手なのは、そのものの意味が嫌いなのではなく、辛かったときの自分を指す言葉だったから。
辛かった当時、よく聞いていた言葉だから、音の響きがとにかく嫌なのだと思います。
そして、「登校拒否」という言葉を聞くと怖いイメージなのですが、今よく使う「不登校」は怖いイメージどころかむしろ優しさを感じます。
きっとそれは、言葉が見直された背景を親から聞いていたから。
世間が学校に行かない子どもの心に歩み寄った感じを受け取ったから。
「不登校」という言葉に優しささえ感じるという感覚はもちろん極端な例だと思いますが、本当にそうなのです。
そんなことを考えていると、もう一つ気づいたことがありハッとしました。
僕は「登校拒否」という言葉を、意味が自分に当てはまる当てはまらない関係なく嫌いだということ。
単純に、辛かったときに自分を指す言葉だったから、言葉の響き自体が怖い。
ということは、僕が普段何気なく使っている「不登校」という言葉の響き自体を耳にしてしんどくなる人がいるということ。
不登校と向き合ううえで、これからも「不登校」という言葉を使います。
でも、自分がハッとしたそのことを、いつも心に留めておきたいです。
八田
「不登校だった僕らから」をテーマにメンバーそれぞれ毎月ブログを更新しています!
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